![]() | モテたい理由 (講談社現代新書 1921) 赤坂 真理 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
どんな史観にせよあらかじめ「観」となったものを渡されるというのは、歴史の思考停止に他ならなくて、読む人にも思考停止を強いてくる。 それはもう「決まりきった話」であり、ダイナミズムも、今と関係するリアリティもない。 しかし発語の季語のように出てくる「語り継ぐ」ということにはあまり興味がない。 語り手が、どう語るべきかやはり「決めかねている」のがつまらないからだ。 戦争の話を聞き取るという作業を、していたことがあった。その上で私は言いたい、日本の「戦争を語り継ぐ」という言葉はただの八月の免罪符だし、その内実はフォークロア伝承とあまり変わるところがない、と。 「決まりきった話を聞く義務」くらいに大半の人が思っている。そんなふうに「語り継がねば」という、同世代や、より若い世代が私は嫌いだった。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは、内田樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティブの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合が良くないことだ。しかし口語至上主義である限り、「それは発音が違う」とか「そういう言い方はしないんだな」と、ネイティヴスピーカーであると言うだけの人間が、優位に立てる。しかしその植民地主義を、日本人は自ら好んでどんどん取り入れている (中略) なまじネイティヴみたいなのはかえって良くないこともある。私がアメリカの高校生だったころ、忘れられない助言をアメリカ人の美術教師にもらった。 「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人じゃあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね」 なまじ発音がネイティヴ並というのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないと言うことである。と言う話が、どう考えてもタイトルとつながっては読めないだろう。 それがその後3ページ(でこの本は終わってしまう)でどうオトされるのかは、読んでからのお楽しみ。

