友達に、「あわせたい人がいる」と電話をもらって、渋谷の古いビルの8Fにある「アジト」という名前の彼女のオフィスへ。
3,4人で話をするのかと思ったら既に20人くらいいるちょっとしたパーティ(飲み会)だった。
オフィスの主もメンバーを把握してない、社会人と大学生半分ずつぐらいの会だった。
そのパーティのテーマが「お薦めの本を紹介する」ということだった。
一人2,3分のプレゼン。
みんなはあらかじめテーマが与えられていて本や紹介のプレゼンの準備をしてきていたようだが、参加してからテーマを知ったのでもはや手遅れ。
「一般の人たち」に薦められるような本はあまり読んでない(まして人にプレゼンできるくらい頭に残っている本なんて!)ぞ、と困って紹介したのが、たまたま3日前に読んだ本書。
著者は(元)コミックの編集者で80年代末に書かれたエッセイ集。
いろいろなところに出したモノを集めたモノなので同じような内容が何度も繰り返されるが、それはご愛敬。
ビックリマンチョコ(今の大学生はほとんど知らなかった)が提示した「ストーリー」を断片化と商品化、集団の孤独とそれを支えるコミックやイデオロギー(本書では「反原発」)の流行り廃り、同人化の必然性とフィードバック、少年少女性の確立と担保・・・と読み進むごとにいつも使ってない能を使うのでおもしろい。
twitterにも引用(転載)したが、以下の部分がもっとも印象的な段落。
(略)
そこで浮上してくるのが概念としての<少女>である。<モノ>を生み出さず、ただこれと戯れ消費するだけのお気楽な人生を歳の中でもっとも完璧に体現しているのは誰か、と考えれば答えは自ずと明らかである。<女>ではなくあえて<少女>としたのは、<少女>とは出産という<生産>背絵も理念的には拒否した究極の消費者であるからである。具体的な少女文化を民俗学的に解釈し、その共通間感覚である<少女>性を抽出したとき、それは<モノ>を産み出さずただ<モノ>と戯れることを義務づけられた都市住民の心意と重なってくるはずである。かくしてここに少女民俗学という、一見ただの思いつきのような新たな民俗学の形が模索されることになる。
この本を読んでいると、身の回りのモノや自分自身に"物語"・"ストーリー"が大きく欠如しているのだと実感する。"ストーリー"が数字に負けて放棄されてる。
ゆっくり読んでも2時間くらいで読める本だが、20年の時を超えて今の身の回りに置き換えて考えるといろいろなところに発想がいって3日くらい楽しめる。
パーティでは社会人は「エリート」っぽい人(本当にそうかはわからないけど、少なくとも自分で自分のことをそう思っているだろう自信たっぷりな人)たちが多くて立派なビジネス書を紹介しつつ、学生に就活の荒波話をする、というのが多かった。
そういう鼻息荒い人たちのはなしを「へへぇ」と聞いて気持ちよくさせるように対応している学生の方がよっぽど大人だな、とおもった。個人的には、青学2年生の女の子がインドに行ったときに一人ふらっとスラムを歩いた時の話をしてくれたのが印象的でおもしろかった。
テーマがあらかじめわかってたら自著2冊持って行って売り込んだんだけどなぁ。
空気読まずに。